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甲子園文字を未来につなぐ共同プロジェクト『甲子園フォント』が生まれるまで
交差する「100周年」というキーワード
「甲子園」と聞けば野球を想像する方が多いかもしれません。
今回は球場に使われている「文字」に注目してみたいと思います。
2024年、モリサワではこのようなプレスリリースを出しました。
邦文写真植字機発明が100周年を迎える年と同じく、阪神甲子園球場も2024年に開場100周年を迎えました。そのご縁もあって「甲子園文字」を『甲子園フォント』として制作する共同プロジェクトが立ち上がりました。
この記事では、阪神甲子園球場にある甲子園文字についてや開発に繋がった経緯、弊社のタイプデザイナーから聞いた甲子園フォントの制作秘話について紹介します。
スコアボードと甲子園文字
ある文字のルーツを探る時、その文字がどこに記されていたのかを知ることは欠かせません。
碑文であれば「石」、ボールペンで書いた文字であれば「紙」など、文字の記されている場所を知ることで、どうやってその文字が誕生したのか深掘りできます。
甲子園文字は、試合の行く末を見守る「スコアボード」にチーム名・選手名・スコアとして表されてきました。初めは木製のボードで、甲子園球場が開場した翌年1925年に誕生しました。
その後、1934年に誕生した2代目はコンクリート製で、戦火を乗り越え、約半世紀にわたって使用されました。
スコアボードが電光掲示方式になる前は、職人が黒い板に毛筆で一文字一文字手で書いていました。一般的な明朝より平体気味で横画がやや太い、その人間味のある筆文字を「甲子園文字」と呼び、親しまれていました。
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1984年以降は電光掲示方式のスコアボードに代わり、映し出される文字もビットマップフォント(またの名をドットフォント)になりました。
それでも、できるだけ手書きの甲子園文字を引き継ぎたいという想いがあり、ビットマップフォントも甲子園文字と呼び、スタイルは明朝体のまま、横画の太い文字になるよう球場の職員がオリジナルの文字データを制作しました。
また今日でも、特殊な漢字などシステムに無い文字を表示させないといけない場合には、アナウンス担当者がパソコンで一文字一文字作字する作業が行われています。
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技術の発展によってスコアボードが電光表示式に変わっても、その変遷に合わせ、文字のあり方も手書きからデジタルへ変わっていきました。
「時代が変わっても甲子園文字のDNAを残したい。」という阪神甲子園球場社の強い想いは2025年、『甲子園フォント』となります。
甲子園フォントの完成について阪神甲子園球場社の広告・歴史館担当・球場長代理の湯山佐世子氏からメッセージをいただいたので紹介します。
甲子園文字は、スコアボードが手書きから電光式に変わってからも、独自の文字を作ってでも継承したいという先人達の思いとともに、長年にわたって受け継がれてきた、阪神甲子園球場にとって大切な財産の1つです。
今回、モリサワさんには、甲子園文字の特徴を研究いただいたり、球場の担当者と何度も調整をいただいたりと、大変なご苦労をおかけしましたが、同じ年に100周年を迎えるというご縁をきっかけに、甲子園フォントの制作が実現した事を、とても嬉しく思っています。
湯山佐世子氏より
それではどのようにして甲子園フォントが誕生したのか、制作を担当したメインデザイナーへインタビューします。
【インタビュー】甲子園フォント開発について
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お話を聞いた人
株式会社モリサワ 本間 由夏
京都市立芸術大学 美術学部卒業。2017年モリサワ文研入社(2018年モリサワ入社)。和文書体『ちさき』開発、美酢オリジナルカスタムフォント開発など、和文・欧文フォント開発、カスタムフォント開発に携わる。
過去のデザインから甲子園フォントに活かせる特徴を抽出する
ー今回の開発はどのように進めましたか?
本間:甲子園文字という長年継承されてきた文字があったので、まずは手書き文字やフォントファイルを見せてもらって、特徴を分析し、DNAを抽出するところから始まりました。文字自体は甲子園歴史館に展示・保管されていたパネルを1枚ずつ撮影し、チーム内で共有させていただきました。
その後、100周年という節目に向けて、限られた時間内で開発ができるよう開発方針を検討しデザイン設計を行いました。
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ー甲子園文字の特徴とは改めてどういうものでしょうか?
本間:手書きの甲子園文字は、たっぷりとした筆の表情、さらに見やすさを意識して設計された太い縦画といった特徴があります。手書きならではの自由な形やバランスには、味と迫力を感じさせられました。
一方、ビットマップフォント時代の甲子園文字は、スコアボードの変更にともない、平体からやや縦長のプロポーションになりましたが、手書き時代と変わらず横画より縦画が太く、甲子園文字の特徴が継承されている印象を受けました。
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甲子園文字にはこのように手書きとデジタルの2種類がありますが、実際の開発において、デザインは手書きの甲子園文字を、字面の大きさはデジタルの甲子園文字を参考にしながら進めました。
読みやすいフォントをベースに甲子園文字の面影を残す
ーでは、制作した甲子園フォントにはどんな特徴があるのでしょうか?
本間:モニターに映し出すサイネージフォントは遠くからでも読みやすいユニバーサルデザインフォントと親和性が高いと思い、ベースのフォントとして採用しました。
明朝体の場合、一般的に本文組を想定して設計されるため、長文でも読みやすいように細い横画で設計されることが多いです。しかしサイネージ上で通常の明朝体のまま使用してしまうと、遠くから見ると横画が見えづらく、判読性に欠けてしまう場合があります。
そのため、甲子園フォントではビジョン表示での視認性を考慮し一定の太みを持たせ、さらに文字サイズを大きく調整しています。
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甲子園フォントは視認性を保っている
また手書きの甲子園文字のDNAを取り入れるために、エレメントに丸み、筆で書いたような処理を加えるなど、1文字ずつ調整しています。
例えば、「火」などにある右はらいは、墨をたっぷりつけて書いた印象に見せるため黒みを持たせています。
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ーサイネージで明朝体というのは近年あまり見かけませんが、線の太さが均一で視認性にも長けているゴシック体を採用する話はなかったのでしょうか?
本間:実は当初、1つの案としてゴシック体に変更することもご提案したのですが、伝統的な明朝体を引き継ぎたいという球場の関係者様の声を受け、変えずに明朝体で開発を進めました。
ただ、数字は昔からゴシック体だったこともあり、こちらは当初の甲⼦園⽂字のデザインを尊重してゴシック体のまま搭載しています。
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ー次にひらがなやカタカナの話を聞きたいのですが、どのような工夫をしましたか?
本間:まずひらがなですが、球場でスコアボードに映す選手名やチーム名などの固有名詞には基本的に漢字かカタカナが使われ、ひらがなはなく、参照できる字形がありませんでした。そのためひらがなは漢字同様、読みやすさと筆のニュアンスを考慮しつつ、オリジナルで作成しました。
一方でカタカナは、手書きの甲子園文字を参考にしています。
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ひらがなやカタカナなどの非漢字は漢字と比較して、ビジョンでは使う機会が少ないかもしれませんが、プロモーション等で甲子園文字のコンセプトを継承したデザインを見せられるよう、「筆書きのニュアンス」が入ったデザインをご用意しました。
ー全部で何文字作成しましたか?
本間:漢字3,000文字強、非漢字700文字弱です。基本的に選手名やチーム名など漢字の使用頻度が高いフォントなので、必要な文字のみ収録しました。
ただそれらの中には、「𠮷(つちよし)」や「髙(はしごだか)」など、これまで担当者の方が外字としてその都度作成していた特殊な漢字(異体字)なども含まれています。
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ー難しい漢字を1文字ずつ作成しなくてもいいようになったことは大きな変化ですね。完成に至るまでの制作期間はどのくらいでしたか?
本間:初回の打ち合わせから数えると約2年程度でしょうか。そのうち、文字のデザインやフォントの製品化などに関わるのはトータルで1年〜1年半ほどだったかと思います。
観客視点で文字の見やすさを開発する
ー今までのお話以外にも、甲子園フォント開発ならではのエピソードはありますか?
本間:甲子園フォントはサイネージフォントのため、ビジョン表示でどのように見えるかが重要です。そのためには、エンジニアとの連携や入念なテストが必要でした。エンジニアにはシステム的な制約や細かい仕様などの確認をお願いするため、制作初期の段階で入ってもらいました。また試作フォントが完成した段階で⼀度ビジョン表⽰テストを⾏い、解像度や観客席の距離から⾒た印象を確認させてもらいました。
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ユーザーの皆さんがどのようなシーンや用途でフォントを使うかといった最終的な使い方について、普段、私たち制作側にはなかなか知る機会がありません。 しかし、甲子園フォントの場合は「甲子園球場のビジョンで表示する」という主な使用シーンが決まっています。 テストでは球場のフォーマットに試作フォントを流し込む機会もあり、どんな風に客席から見えるのか具体的に想像しながら制作を進められたのは大きな助けになりました。 たとえば、選手名の文字数が多い場合には縦に潰して表示されるといった、独自の使われ方を知ることができたのも貴重な経験でした。
こうした甲子園球場の使用環境に特化した形で開発を進めた点は、やはり甲子園フォントならではのプロセスだったと思います。
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ー最後に、甲子園フォントが完成した時のお気持ちを教えてください。
本間:⼿書きのパネルは1枚ごと、1⽂字ごと、⽂字数によってもデザイン差があります。 残っているスコアボードの⽂字から平均的な特徴を⾒極め、甲⼦園フォントでは全体の⽂字のデザインを統⼀していきました。
これまでの甲子園文字の歴史に敬意を払いながら制作することは、大きなプレッシャーでもありましたが、それ以上にやりがいのある貴重な経験でした。 甲子園球場での使用はもちろん、中継などでも映る機会があると思うと、今後実際に使われる様子がとても楽しみです。
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これから100年続く文字へ
100周年同士という共通点で異業種の垣根を越えて開発が進められた『甲子園フォント』は2025年2月27日にお披露目となりました。
これからも阪神甲子園球場のスコアボードには、試合に参加する選手一人一人の名前や試合結果が映し出されます。そこにある一つ一つの文字には、長い歴史があり、伝統によって新たに引き継がれた形があります。
この記事を読んでくださった方には、ぜひ文字にも目を留めながら観戦していただけたら幸いです。
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伝統は守るものと変えるものを繰り返しながら続いていきます。
文字文化はこれからも技術の発展とともにあり方も移り変わってゆくでしょう。モリサワは今後も誰かの想いに応え、歴史に残すことができる書体を開発していきたいと思います。
あらためて阪神甲子園球場さんとのコラボレーションに感謝を。
そして新たな100年へ、これからも文字とともに。