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私と書体と背景

2024 年は、モリサワにとって大切な節目を迎える一年となりました。なかでも、10月に「写研フォント」をリリースしたことは、文字やデザインを支えるみなさんが注目する、大きなニュースになったのではないでしょうか。
今回のFont College Open Campusでは、写研フォントの改刻プロジェクトを牽引された 有限会社字游工房の書体設計士 鳥海 修氏をお招きし、書体設計にかける理念や、これまで関わってこられた書体にまつわるさまざまなエピソードを伺いました。鳥海氏の文字と向き合う姿勢を紐解きながら「なぜこの書体が生まれたのか」という必然性を知ることで、書体を作る人や使う人のヒントとなるはずです。


イントロダクション:写研フォントって?

写研フォントとは、株式会社写研(以下写研)が作った写真植字のための書体のことです。デザインも豊富な写研書体は、写植時代には雑誌やポスターなどといった印刷出版物を中心に絶大な支持を集め、DTPが普及する90年代初頭まで、文字組シーンになくてはならないものでした。
また、モリサワと写研の縁は深く、モリサワの創業者・森澤 信夫(1901年〜2000年)と株式会社写研の創業者である石井 茂吉氏(1887年〜1963年)が、世界初となる邦文写真植字機の特許を申請したのは1924年7月24日のこと。記念すべき100周年を迎える2024年に、モリサワではさまざまな取り組みを企画しました。

このアニバーサリーイヤーに合わせてモリサワと写研が共同で進めてきたのが、写研書体のフォントの開発です。写植時代のデザインを参考にしつつ現代の環境に適した書体として一からデザインを見直し、主に本文書体中心の「改刻フォント」、オリジナルのデザインをできるだけそのまま残すことを意識し、個性的で見出し向けの書体が豊富な「写研クラシックス」。
書体の性質に合わせて2種類の開発アプローチを採用しています。2024年にリリースされたフォントは全部で43種類。今後数年で合計100 フォントのリリースが計画されています。

写研フォント改刻プロジェクトの全体監修を務めている鳥海氏は、写研書体が一世を風靡した写植時代を最もよく知る人物の一人。自身が影響を受けた出来事や書籍を手掛かりに、書体制作の背景と理念を教えていただきました。
また、今回のFont College Open Campusは、鳥海氏たっての希望で、初の有観客開催。モリサワ東京本社に50名ほどの参加者が集まり開催されました。

「水のような、空気のような文字」 ―故郷の原風景を重ねて

鳥海氏がまず見せてくれたのは一枚の風景写真でした。これは、自身の出身である山形県遊佐町の風景で、中央にそびえるのは鳥海山ちょうかいざん。自然豊かな美しい原風景を思い浮かべながら、青春時代をにこやかに振り返ります。

「東京や京都、都会の街中にいたら、文字の意匠に興味を持つと思うのですが、私の故郷には何もなくて。看板すらなかった。つまり、文字に関するものが何もなかったんです。どうして文字を作ることになっちゃったんだろうね(笑)」

鳥海氏が青春時代を過ごした昭和40年代初め、国内では深刻な公害問題が人々を苦しめていました。化学薬品が流れ出たことによって、川からは魚が消え、畦道のドジョウや蛍もいなくなり、それまでの生活を大きく捻じ曲げてしまった時代。鳥海氏も13歳の頃に見た、水俣病のドキュメンタリー番組が忘れられないといいます。

「素直に気持ちが悪いと思いました。そして、グラフィックデザインは“企業の宣伝をするもの”と思うようになり、そういう仕事はしたくないな、と。でも、そんなことを思いつつも車のデザイナーになりたいなと思ったりして。そして、高校は工業高校に通っていたんですが、受験シーズンに突入する直前に、美大に行きたいことを先生に伝えました。結局受かったのがグラフィックデザインのコースだったので、そこに進学しましたが、どことなく気が進まないというか、やりたくないと思っていましたね。大学に進んでからも、いろいろな本を読みながら“文章を書きながら暮らせたらどんなにいいだろう”と思っていました」

1 年、2年と美術の基礎を学び終わり、3年生になると広告やイラスト、グラフィックデザインを専門とする教科ばかり。とる授業がなく悩んでいた時に、何気なく目についたのが「文字デザイン」という授業でした。当時の先生は、TBS専属のタイトルロゴデザイナーとして活躍していた篠原 榮太氏。文字を作る色々な企業を見学させてくれるような授業でした。

ある日の授業で毎日新聞社に行った時のこと。一つのカタカナをレタリングしている人が鳥海氏の目に飛び込んできます。聞けば、その人が書いていたのは「活字のもと」。“書体”という言葉も、写植の意味もわかっていなかった当時、自分が日頃から新聞や本で目にしている文字が誰かの手によって作られているということに衝撃をうけ、そして何よりも、その人が書く文字の美しさに感銘を受けたといいます。
グラフィクデザインが“表に出てくる目立ったデザイン”だとすれば、文字を作ることはまるで“表に出ないグラフィックデザイン”。のどかな農村で育った鳥海氏にとって、「ただ読みやすい文字を作る」という概念はすんなりと体に染み込んでいきました。

「本を作るための文字があるということを、その時に初めて知りました。毎日新聞社を案内してくれたのは、小塚ゴシックを作った小塚昌彦さん。彼が最後に『日本人にとって文字は水であり、米である』と言ったんです。なんだか故郷の風景ともマッチするな、と思って。その瞬間私は、文字を作る仕事がしたいと思いました」

その後、大学を卒業し、1979年に写研に入社。鳥海氏曰く、「当時世に出ているフォントの8割は写研のものだった」といいます。平成元年にDTPが確立され、文字組版をコンピューターで行うようになってからフォントのメインストリームは大きく変貌を遂げたものの、当時の写研を支えたデザイナーは、藤田 重信氏(※1)、今田 欣一氏(※2)など、今でも第一線で活躍されているビッグネームばかり。現代にも語り継がれる名作フォントの数々が、写研から生み出されていたのです。

※1 藤田 重信氏:書体デザイナー。1975年、株式会社写研文字デザイン部門に入社。1998年、フォントワークス株式会社に入社し、筑紫書体ほか数多くの書体開発をする。
※2 今田 欣一氏:タイプデザイナー。1977年、株式会社写研文字デザイン部門に入社。1997年、有限会社今田欣一デザイン室を創業し、数多くの書体にて和字書体制作を担う。2001年からは書体ブランド「欣喜堂」を立ち上げ、「和字書体七十二候」「日本語書体八策」を開発・販売している。

写研に入社してからも、本を作る書体である「本文書体」に興味が尽きなかったという鳥海氏。当時、通勤のバスが同じだった当時の上司、橋本 和夫氏(※3)に、本文書体の理想について尋ねたことがあったと言います。
そこで聞かされた橋本氏の答えは「本文書体の理想は、水のような空気のようなものである」ということ。橋本氏は、写研入社以前は金属活字メーカーの株式会社モトヤに勤務しており、この言葉は、モトヤ時代の師匠である太佐 源三氏(※4)から受け継いだ言葉です。

※3 橋本 和夫氏:書体デザイナー。1954年、モトヤに入社し太佐 源三氏に師事し、金属活字の原字制作に携わる。1959 年、株式会社写研に入社してからは、原字制作部門にて写植機用の原字制作・監修に携わる。写研退職後は1998年より株式会社イワタにてデジタルフォントの制作・監修を行う。
※4 太佐 源三氏:書体デザイナー。金属活字のもとを作る種字彫刻師として活躍。1929年には、朝日新聞社が独自に所有する朝日書体を制作。定年後招聘を受けた株式会社モトヤにて、モトヤ明朝、モトヤゴシックをデザインし、モトヤ書体の基礎を築いた。

鳥海氏は「水のような、空気のような」文字とは何か、今でもずっと考えています。

「私は、確固たるものが一つあるわけではなく、また、宝物探しのように一つのものを目指すようなものではないと思っているんです。この言葉はきっと、本文書体を作る人が基本的な考え方として、心根に持っているべき心構えなのではないか。彼らが文字を作ることを考えた時、きっと、それまでに育ってきた環境や、勉強してきたこと、自分の中に染み込んでいるバックグラウンドが個性となって滲み出てくるはずで、その時に考えなくてはならないもの。つまり、一人一人が考え続けた理想の形が、“水のような、空気のような書体”、ということではないでしょうか。人数分の理想の書体があるのではないかな、と思っているのです」
鳥海氏にとって、水のような、空気のような書体とは、まさに鳥海山を望むあの風景を思わせるような、たおやかで美しいものであるに違いありません。

書体デザインを志すきっかけとなった本

ここからは、鳥海氏が影響を受けた書籍、これまでに制作してきた書体に関連する書籍を掘り下げていきましょう。

1. 精興社書体 ―『漱石全集 第四巻』(岩波書店)

「読みやすい文字、とは何か」この定義は、厳密にいうと時代によっても異なるものです。一つの理由としては、時代が進むにつれて、かなの使用頻度が増えていったこと。漢字が多く、かなが少ない文章を読む時、かなが小さいとパラついて見えてしまうのだとか。よって、漢字が多かった時代の文字は、かなが大きめに設計されています。写研書体「石井明朝」にも、かなが大きいものと、小さいものがあるのだといいます。

「終戦後、さまざまなメーカーの金属活字が普及し、私自身もかなが大きな金属活字を見て育ってきました。金属活字の魅力は、なんといっても金属を押し付ける力強さと、そこからくる読みやすさ。押し付けることで文字が立ち上がって見え、まるで生きているかのようにはっきり見えるから“活字”と呼ぶと教わったこともあります。そんな中、金属活字で影響を受けたのが、この『漱石全集』です」

この本の書体「精興社明朝」は、活字彫刻家 君塚 樹石氏 が手掛けた“名品”と呼ばれる書体です。時代背景的にも漢字が多いテキストでありながら、他の金属活字に比べてもかながやや小さいのが特徴です。文字のバランスや、読んだ時に感じる版面の印象から、鳥海氏にとって「私の原点」と呼べる一冊だといいます。
「こういう文字に匹敵する、現代の文字を作りたいですね。これに尽きます」

2. 游明朝体 R ― 京極夏彦『姑獲鳥うぶめの夏』(2003年、講談社)

本文書体制作の道に進み始めた鳥海氏は、1989 年、鈴木 勉氏、片田 啓一氏と共に字游工房を設立し、大日本スクリーン(現 SCREEN グラフィックソリューションズ)に提供した「ヒラギノシリーズ」など、数々の名作を世に送り出します。そこで、字游工房独自の「時代小説が組めるような明朝体」をコンセプトとして制作したのが、2002年発売の「游明朝体」でした。

「1998 年から制作を始めた書体で、元々は藤沢 周平の世界観を表現するのがコンセプトでした。ある時、食事をしながらどんな本を読むのか話し合っていて、藤沢周平の世界観、庶民の生活を描く感じがいいよね、なんて話していたんです。すると、同席していた平野 甲賀さん(※5)に、DTPの世界で“普通の書体を作ってくれないか”と言われました。当時はDTPが登場してから10年ほどしか経っていなかった時代で、使える書体も7書体しかなかった。だから、鈴木さんと一緒に作ろう、と決めて、開発に乗り出しました」

※5 平野 甲賀氏:(1938〜2021)ブックデザイナー。立ち上げ初期の頃より晶文社のほぼ全ての書籍の装幀を手がけた。


その後、志なかばで鈴木氏が逝去。鳥海氏は字游工房の代表を引き継ぎ、游明朝体を完成させます。「思い出深い書体ではあるけれど、いいのか悪いのかはよくわからないままでした。色々な人に見てもらって、“藤沢周平はこんなに綺麗なイメージじゃないな”、なんて言われたりもして。見てもらった中の一人に、小説家の京極夏彦さんがいたんです」

初めての打ち合わせの時、京極氏がとても不機嫌そうで、怖かったことを覚えているそう。持参した原字をおそるおそる見せてみると、京極氏はじっと見つめながら次のように語ったといいます。

「綺麗だなあ。私たち作家は、こういう人たちにこそ支えられている。印刷する人がいるから、本を出す人がいるから、文字を作る人がいるから成り立っているんだ」


そうして採用された『姑獲鳥の夏』では、帯に「読みやすい書体、美しい版面」と京極氏からのメッセージが残されています。

鈴木 勉氏が書いた原字。線が細い方は印画紙に書いたあと、紙焼きしてもう一度修正を施している。
太い方は原字用紙に筆を入れて、直接書き込まれている。

「こんなに綺麗に描けるものなんですよね、文字って。描いたものがそのまま縮小して印刷されるのが写植の文字です。今はアウトラインフォント、と呼ばれるくらいだからパスをきっちり計算して描いて作るので、こんなに綺麗にオートトレースできない。どっちが便利かな、と思ってしまいますよね」

3. ヒラギノ明朝 ― 朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』(2015年、講談社)

ヒラギノ明朝は1993年に発売されました。当時初めて、10000字以上を収録した日本語フォントとして話題になり、漢字が多く実用性が高かったため、特に出版社に広く採用されました。パンフレットやカタログなど、カラーの印刷物を想定して作られており、横組みの組版を想定して作られた書体です。文字の空きを広く取り、どの文字も均一な空き具合に見えるように細かな調整が施されているため、文字が潰れずに“明るく”見えるのが特徴。高速道路の看板などにも採用されました。

また、当時はオンスクリーンやデジタルで使われることは想定していなかったと言いますが、現在もMacやiPhone、iPadといった、Apple社製品のiOSデバイスに標準搭載されています。 「ヒラギノシリーズは、明朝、ゴシック共に鈴木さんが主となって作られました。Apple 社に採用してくれたキーマンといえる方にも、“もし今、Appleにどの文字を入れるかと聞かれたら、やっぱり自分はヒラギノを入れたい”と言ってもらえています」

4.游明朝体R + 游ゴシック体 R ― 菊地敦己 ほか『「旬」がまるごと 3月号(かぶ)』(2011年、ポプラ社)

游明朝体と一緒に使うゴシック体として開発されたのが游ゴシック体。この書体は主に鳥海氏が中心となって開発されました。2009 年に発売するやいなや、注目したのがアートディレクターの菊地 敦己氏。自身が手がけた雑誌にすぐさま採用されたと言います。

「菊地さんはとっても繊細な方で、本当に綺麗に組版してくださったので、とても嬉しかったです。もう使ってくれているのか、と驚きました」

5. 游教科書体 M ― 『新編 新しい国語 二上』(2018年、東京書籍)

(著作権の都合上、書影画像はありません)

2019 年、東京書籍株式会社からの依頼を受け、教科書をデータとして、DTPで作成するために制作した書体です。教科書をデータ化する目的の一つは、拡大教科書を作ることでした。拡大教科書は、通常の教科書が保護者やボランティアの手に渡ってから手作業で制作されているという背景もあり、必要とされる児童の手に渡るまでにどうしても時間がかかってしまうものでした。データ化することで拡大がしやすくなって、これまでの苦労が軽減されるのではと期待され、オファーがあったのです。

文字の形を決めるにあたり、東京書籍の方から、「保護者から“書写で習う文字の形と、教科書の文字の形が違う”という指摘を受けた」という話を聞いた鳥海氏。そこで、書写の文字を書いた先生に許諾をもらい、その文字をベースにして作られました。

「子どもたちが学校で教科書をもらって、ページを捲った時、そこで初めて目に飛び込んでくるのがこの書体。その時に、子どもたちが勉強を嫌いになったら嫌だなあって思いますね(笑)。文字を愛しいと思って作った書体です」

6. 石井中ゴシック + タイポス ― 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』(1981年、講談社)

『窓ぎわのトットちゃん』は、鳥海氏も「ぜひ読んで!」とおすすめする名著。とても有名な一冊なので、手に取ったことがある方もきっと多いはず。
この本で使われているのは、見出しが写研書体「ナール」、漢字は「石井中ゴシック」が使われています。それまでの読み物はほとんどが明朝体が一般的でしたが、この本はゴシック体が採用されています。さらに、かなに「タイポス」が使われています。

タイポスとは、1959年、武蔵野美術大学の学生グループ「グループ・タイポ」が卒業制作として作り始めた書体。写研に働きかけて「写植用の書体にしてほしい」と持ち込んできたことをきっかけに、石井ゴシックと組み合わせて使うかな書体として採用されました。

「この本が発売された時は、まだ写研に入って間もない頃でした。当時の上司が朝礼で、“ゴシックで組まれている小説”として紹介していたのを覚えています。それまで通説となっていた、明朝体だけが本文書体、という概念が古いということを思い知らされた一冊ですね。新しい時代、書体の多書体化の時代はここから始まったんです」

タイポスとは、横線が水平で、手書きの風合いは残されていません。機械的で、アルファベットの作り方を参考にしたスッキリとした印象の和文書体です。この風合いが、主人公・トットちゃんの雰囲気とすごく合っている、と鳥海氏は語ります。

「タイポスは、いかにも学生が考える書体、という感じなんです。水平で、辿々しく、拙い感じがして。この雰囲気が、トットちゃんが小学校に入ってから、学校が楽しくてしょうがない、という雰囲気が、よく表れていると思うんです」


7. 文游明朝体 R + 文麗かな ― 黒柳徹子『続 窓ぎわのトットちゃん』(2023年、講談社)

2023 年に発売された『続 窓ぎわのトットちゃん』は、書体がガラッと変わっています。使用されているのは「文游明朝体」と、「文麗かな」。文麗かなを作られたのは鳥海氏自身で、近代文学向けの書体として2021年にリリースされました。開発当時のオーダーは、「夏目漱石の『こころ』を読んで作って欲しい」というものだったと言います。

「かなのデザイン表現は、運筆にあると思っています。私は、『こころ』を読んでいるとき、丁寧に、ゆっくり読みたい。つまり、文字もゆっくり運ぶようなストロークにしたい、と考えて作ったんです。そんな書体がまさかこの本で使われていた時、とても驚きました」

このお話は、前作から続き、トットちゃんが疎開をするところから始まります。その後終戦を迎え、物がない時代、トットちゃんが成長しラジオ女優に進むまでの過程が描かれています。前作と比べると、戦争の暗い影が滲む雰囲気があり、「戦争を絶対に起こしてはならない」という実感を持ったメッセージが込められている一冊。その空気感に対してこの書体は、ぴったりマッチしていると感じたそうです。

8. 垂水かな ― 松田奈緒子『重版出来』(全10巻、小学館)

「これは出版社を題材にした漫画ですが、著者の松田さんが書体の作り方を尋ねに来られたんです。とても楽しんで、熱心に聞いてくださって。後日、その内容を実際に漫画に落とし込んでくれました。とても上手に表現してくれています」

9. 游明朝体R + 朝靄かな ― 谷川俊太郎 詩集『私たちの文字』(2019年、美篶堂みすずどう・本づくり協会)

この本は、谷川 俊太郎氏の詩集です。長野県の製本会社である美篶堂が主催となって制作したもので、オリジナルのかな書体「朝靄かな」で組まれています。一つひとつをしっかり読ませる端正なデザインで、その文字を見て、谷川氏が一編の詩を書き下ろしてくれました。

10. 游明朝体R + 游築五号仮名W3 ― 黒田夏子『abさんご』(2013年、文藝春秋)

『abさんご』は漢字が極端に少なく、固有名詞もほとんどないことが特徴の小説ですが、鳥海氏は「この人は横組みで作りたかったんだろう」と思ったのだそう。

「紫式部は、かながなかったら源氏物語が書けなかったと言われているんです。それほど、縦に文字を書くという概念がこの頃から浸透していた。一方でこの著者は、縦に書くという概念が邪魔だったんだろうなあ、と思うんです。どんな人が読んでも、意味さえとれればわかるというか」

本文をご覧になりたい方は文藝春秋Booksにてご確認ください。

この本に衝撃を受けて「だったら、横組みの明朝体を作ろう」と着手したのが「水面かな」という書体。横組みで組むことを想定して作られた明朝体です。ストロークはゆったりとして丸みを帯びています。これは、円を描いて左から右にずれていくような運筆をイメージしたものです。

11. 石井明朝 ― 諸橋轍次 『大漢和辞典』(全15巻、大修館書店)

鳥海氏が、最後に紹介したのは、最も印象深い書体「石井明朝」。この書体は「諸橋大漢和」と呼ばれる大修館書店の大漢和辞典に採用された書体で、この辞典に掲載された見出しの漢字は47,000 字余りにものぼります。第二次世界大戦前に金属活字を利用して制作が進んでいたこの大辞典を、戦後、どうしても写植でつくり直したい、という大修館からの熱烈なオファーを受け、石井茂吉氏が制作を行いました。

「諸橋大漢和は、当時東洋一と謳われた漢和辞典。そして、この石井書体は写研のフラッグシップとなる重要な文字でした。今回、モリサワと写研の共同プロジェクトとして改刻されたことを、本当に嬉しく思います」

改刻の内容についてはこちらをご覧ください。


名だたる巨匠たちの手仕事にふれ、文字を見つめ続けてきた鳥海氏が手掛けてきた書体は、これまで本当に多くのシーンで採用されてきました。こうして一つずつ振り返ってみると、それぞれの書体が、まさに「水のように、空気のように」作り手の世界観に寄り添い、クリエイティブのアイデンティティを支え続けてきたことがわかります。

「書体を作ってきて、こんなにたくさんの人たちに会えるとは思ってもいませんでした。私はただ、文字を作っているだけですから。それが気づけばこうして、色々な作家さん、書家さんに出会い、賞をいただいたり。何もない庄内地方で育った私がここまで来れたというのは、やはり、気合というか“作ろうという気持ち”だと思います」


Font College Open Campus はこれからも不定期に開催し、noteでレポートを掲載していきます。今後の掲載もどうぞお楽しみに!

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